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清瀬の施設にて「音」の仏教体験

2016-03-05

木魚、鈴、鉢、錫杖など、
お寺にはさまざまな楽器があります。

これらを自分の手にとって
鳴らし、聴いていただく。

今日は清瀬のデイサービスの施設で
音楽療法を実践している林先生とともに、
こんな仏教体験のイベントを開催。

キリスト教系の施設に坊さんが来る
珍しさも手伝って、
ご家族やご近所のかたも大勢集まり、
広いホールがいっぱいになりました。

施設で話すことの難しさを実感しつつも、
音にさまざまな反応を示されるみなまさのご様子に、
音そのものが仏さまの声であることに
あらためて気づかされたひとときでした。

このような場を与えていただいた林先生、
施設長さまの仏教に対するご理解に
かさねて感謝を申し上げます。

合掌

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臨床宗教師としての第一歩

2015-04-24

上尾中央総合病院にて。

僧侶は本来、「死」のみでなく、
「生」「老」「病」に向き合うべき
存在でありたいと思っています。

これまでも、僧侶としてではなく、一般の立場で
緩和ケア病棟のボランティアを続けてきましたが、
今後、僧侶・臨床宗教師としても
臨床の現場で関わらせていただく
貴重な一歩となる機会をいただいた、
大島さんに感謝申しあげます。

僧侶が病院や施設など、さまざまな現場に、
自然に溶け込める社会を作りたいと思っています。

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東北大学 臨床宗教師研修 修了

2015-04-24

東北大学で資格認定している臨床宗教師。

3回の全体会と、2回の実習を終え、
無事認定をいただいた。

これまでも緩和ケア病棟での
ボランティア活動などを続けてきたが、
この資格認定をいただいたことで、
より臨床現場で活躍できる、宗教者を目指したい。

僧侶は、とかく人の死、のみに関わる
縁起が悪い存在だと思われがちであるが、
仏教とは、人が如何に生きるべきか、
或いは、生老病死に苦しむ人々に
如何に寄り添うことが出来るか、が、
本来の役割なのである。

宗教者として、
より広い視野、現場で必要とされる存在を
目指したい。

合掌

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ビハーラ僧 三浦先生に学ぶ

2014-11-02

大阪、ビハーラ21にての実習を終えた。
東北大学臨床宗教師研修の一環で。

三浦先生、ご多忙のところ大変お世話になりました。
シェアさせていただきます。

僧侶が、いま、生きている人のいのちに
如何に向き合うことができるか。

それは、「方便を究竟とす」、
すなわち、知識ではなく実践に尽きる、である。

言うは易し、であるが、
その形のひとつとして先駆的に実践している、
三浦紀夫先生の活動を垣間見て、
大きな学びをいただくことができた。

三浦先生が毎日のように入居者宅を訪問する姿、
先生の訪問を待ち望み、死後を託している入居者の言葉に、
お経とは、現世と死後をシームレスに繋ぐ方便であり、
単独で成り立つものではないことをあらためて確信した。

僧侶の修行にはインターンがない。

お経や作法、伝統文化の継承も
僧侶の役割の一部ではあるが、
最も重んじるべきことは、生きている人に
寄り添いたい、という発心を起こすことだ。

現在の修行カリキュラムに、
それを後押しする実践の場がない以上、
それぞれが、寺の外に求道すべきた。

尤も、修行僧の研修受け入れをしてくれる
施設や病院が少ないことも事実であるが、
今後ますます福祉、医療、公共の場で「使える」
宗教師が活躍することで、
潜在的に宗教を必要としている現場の
実習や実践の受け入れも増えると確信している。

各宗教教団は、それに追従するように
実践宗教者育成のために、
真摯に取り組むものと期待している。

学びは時間とお金をかけてでも、
「したいと思うもの」である。

この度私にその時間を与えてくれた、
家族や寺のスタッフに感謝したい。

NPO法人 ビハーラ21
http://www.vihara21.jp/

第10回 21世紀高野山医療フォーラム

2014-10-06

10月4日 日比谷公会堂にて。

めぐみ在宅クリニック 小澤竹俊院長先生や、
聖路加国際病院 細谷亮太先生の講演は
特に聴き応えがあった。

待ったなしの医療の現場からの声は
切実、且つ説得力に溢れていた。

また、臨床宗教師として、
具体的実践を続けている大下大圓住職の活動にも
大いに感銘を受けた。
被災地での足湯隊。目線はおのずと僧侶のほうが下になる。
「実はね」の第一歩になるとのこと。

さらに、山折哲夫さんの、
お迎えに来るという天の声に対し、
「今ならいいよ」と言える心境、、などなど。。

「宗教はないが、宗教心 はある」
「(医療など)「生」の情報は溢れているが「死」の情報は少ない」
「患者さんに教えてもらうこと」

これらの言葉に、人の終末に寄り添おうとする
我々宗教者の存在意義を見出すことができそうだ。

それにしても、、、

高野山修行時代、このフォーラムに
参加したときにも思ったことだが、
僧侶の参加が非常に少ないのは残念である。

現場で活動している人は相手を「敬っている」
果たして僧侶は死にゆく人、その家族を敬っているか。
上から「導いてあげる」ことが、
真の宗教者の目指すところではないし、
万人が求めていることでないことは自明である。

学び、気付き。
特に実践 での学びをこれからも心がけたい。

トマトの命

2014-07-16

ベランダのトマト、初収穫。
今年も良く育ってくれている。

ところで。

まだ青いうちから2歳の子供の手によって
無残にも収穫されてしまったトマト、
哀れに思った妻が仏壇に供えていたのだが、
これが、徐々に赤くなっているのに気付く。

何処まで赤くなるのか、とばかりに
記録写真を撮りはじめる。
どんどん赤くなるんだな、これが。

生きているんだね。
蔦から離れても。

ますます心して「いただきます」せねば成らぬ。

この話を聞いたムスメが一言。
「トマトの命、食べた私らの一部になってまだ続くぞ」と。

ほほぅ、なかなか。。。

形を変えつつも永遠に続くであろう
生命の営みの一部分を垣間見た気がした夜であった。

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七夕会にて。

2014-07-15
今日は私がボランティアをしている病院の
「七夕会」に参加。
普段病室から出ることがない患者さんも
このような季節の行事には出てくるかたもいらっしゃる。

自力で、または車いすでも移動できないかたは
ベッドごと移動。我々は看護師さんの助手を務める。

こうして患者さんやそのご家族で、
サロンがいっぱいになる。

ボランティア軍団のハンドベルと、
先生のピアノによる演奏、
守衛さんの手品などで会がもりあがる。

にわか練習のハンドベル演奏にも患者さん、
普段はとても見ることができない
あふれんばかりの笑顔で聴き入ってくれる。
そのお顔に見とれていたらハンドベル、
2カ所も間違えたぞ^^;

ここの緩和ケア病棟では、
患者さんに日常生活や社会との繋がりを感じてもらうための
取り組みに熱心である。

医師、看護師との信頼関係など、
患者さんやご家族の満足度、納得度は非常に高いと聞く。

 たとえば、この病院から転院し、
 そこでお亡くなりになったご家族のかたが言ってくださるのだから、
間違いあるまい。。

どうせ一度は死ぬのなら、
私も、こんな病院でお迎えを待ちたいね。
今日も患者さんたちの笑顔に、
私のほうがたくさんの元気をいただいた。

感謝合掌
(2014.06.28)

歌だって、立派なお経。

2014-07-15
「青い山脈」というお経。以前お勤めしたお葬式で、
故人さまが大好きだったというこの歌を、
参列者さまとともに合唱し、お別れした。

実はこの歌、私の十八番のひとつでもあり、
故人さまご夫妻は、当院の合葬墓「もやいの会」の
古くからの会員さんで、生前戒名も授けるなど、
親しかったからこそできた技かもしれないが。
お経もいいけど、歌の力もすごいね。この歌に励まされて、
夫婦でがんばってきたという
奥さんの言葉が響く。

思い出の曲で送られることが、
人にとって、嬉しいことだとしたら、
私も思い出に残してもらえるような
お経ソングを作らねばなるまいね。

生きている間から、お経を好きになって
もらえるような。

ところで先日、とある初盆供養の席で、
「俺の葬式のときはお経を少し短くしてもらって、
 ルイ・アームストロングの『この素晴らしき世界』で
  送ってほしいなぁ」
粋な下町のお父さんに出逢い、感激。
私に依頼されたわけではないが、
今後そんな依頼があったときのために
歌のレパートリーも増やさねば。。。^^;
(2013.11.21)

舘野泉さん 左手の世界シリーズ 最終回

2014-07-15
東京オペラシティコンサートホール
舘野泉さん 左手の世界シリーズ 最終回皇后陛下もご臨席され、
さらに、アンコール前には舘野さんの
誕生日を祝い、HappyBirthdayの演奏と
大きなケーキと花束が贈られるという演出。

この上なく貴重な場に居られたことに、
感謝、感激、感涙であった。

舘野さんは右半身不随になって以降、
左手のピアニストとして不死鳥の如く復活。

右手が動かなくなったときの慟哭たるや、
ベートーベンが音を失いかけたときのそれに
勝るとも劣らぬものだったに違いない。

此処に、究極のプラス思考を学ばねばなるまい。

失った悲しみより、左手が「有る」という喜び。

音楽を表現するのに手の数は問題でない。。。
むろん「喜び」に至るまでの道は決して平易では
なかったろうし、未だ上を見ているに違いない。
終わりなき、精進であろう。
仏は心の中にあり、その心の持ちよう次第で
いくらでも前向きになれるという。

しかし人間、大きな壁の前には、
自分ひとりの力で思うに儘ならぬ時も多々。
そんなときこそ偉大な先人の徳、教えに触れ、
自分の外からの救いをいただくのも、必要かもしれない。

今日の経験は、
浅学ながらも音楽による布教を志す愚僧に対し、
本物の感動を教えてくれた「救い」に他ならないのである。

(2013.11.10)

 

寺とグリーフケア

2013-08-30

第2回悲嘆講座

NPO法人仙台グリーフケア研究会
JDGSプロジェクト
両団体共催の講座に参加。

様々な職種のかた、70名が受講。

震災や自死で大切な人を亡くされたかたの
悲しみに如何に向き合うか。

大人のみならず子供のケアにも
大きな配慮が必要だと痛感。

講義だけでなくワークも体験。
これには驚いた。
この実践のほうが、100の説法よりも
どれだけ有り難く、有効か、と思うほど。

坊さんの養成カリキュラムにも、
この種の講座は必須として取り入れるべきだな。。。

それにしても、
死別による悲嘆に暮れる無数の人に対し、
かくも懸命に向き合おうとする人たちが居る。

特に主催者、理事の先生方は
新たな団体立ち上げや、活動の啓蒙に
懸命に取り組んでいらっしゃるが、
まだまだ必要な人への認知が進んでいないのが
現状だ。

ところで、檀家はある意味、
遺族会の役割として機能させねばならん。

僧侶も寺、仏教の原点に立ち戻り、
グリーフケアの必要性と手法を学び、
この発露の先に宗教儀礼が成り立つとの
意識を持つべきだ。

でなければ、せめて、
このような活動に励む団体が
存在することを認知し、必要に応じ、
檀家さんに情報提供していくことが肝要だ。

己の無知、無力に気付かされる毎日である。

多くの学びと気付きを下さった
主催者様、講師、参加者の皆様に感謝申し上げます。

明日の二日目も宜しくお願い致します。

合掌

NPO法人仙台グリーフケア研究会
http://www.sendai-griefcare.org/

JDGSプロジェクト
http://jdgs.jp/about_JDGS/JDGS_members.html

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